書籍の購入特典となっていた短編小説のプロトタイプを公開します。
こちらは小説投稿サイトではなく、こちらのみでの公開とさせていただきます。
特典の内容とは異なる部分がありますので悪しからず。
第一弾は、シュワルツとルシフェルの幼いころのお話です。
窓の外から、きゃらきゃらと弾けるような笑い声が耳に届く。シュワルツは窓を開けようと伸ばしかけていた手に気付き、所在なさげにそれを下ろした。窓の外へ向けていた視線を外しぱらりと目の前にある歴史の本の頁を捲れば、もうすっかり覚えてしまった単調な文章が並んでいる。集中しようと分厚いそれとにらめっこしても、どうしたって目が滑ってしまう。
原因はわかりきっているのだ。外から聞こえる笑い声──隣国セデンタリアから訪れている、王家の三兄弟。両親と共に挨拶したきり顔は合わせていないが、子供らしく無邪気に話し、走り、笑う、三人の姿はシュワルツにとってどこか遠い世界の出来事のように思えた。
魔力を持って生まれたというだけで邪険にされる妹に、彼らは何のてらいもなく笑みを向けた。それどころかその手を差し出して、妹を外の世界へと連れ出してみせたのだ。人見知り気味の妹もすぐに彼らに懐き、今はかの国の第一王子の膝の上に抱えながらうたたねしている。
小さな妹を囲む三兄弟の目は穏やかで、もしもその場に自分が居たとしても邪魔をしないように踵を返すことしか出来ないと思ってしまうのは当然のように思える。
自分よりよほど兄弟らしくみえるその姿を羨ましく思うより前に、シュワルツを襲ったのはどうしようもない絶望だった。「自分と妹もセデンタリアに生まれていれば」なんて、そんな有り得もしないことを一瞬でも祈ってしまった。もしそうなら妹が孤独に苛まれることも、自分が悩むこともなかったのではないか、と。
それが自分たちを慈しみ、敵ばかりのこの国で我が子を守ろうとしてくれている両親への手酷い裏切りになるなんてことはわかっていたのに。 けれどそれと同時に、この国にいるうちはきっと妹はあんな風に笑えないだろうなんてことも理解してしまっているから、尚更。
今年で七つになった自分を、周囲は神童だなんだと持て囃す。やりたいこと、すきなこと、ぜんぶぜんぶ、ちょっとだけがまんして。
だって聞き分けの良い子でいれば誰も、自分のすることに文句なんて言わないから。少しだけ窮屈だなとは思うけれど、あの日そろりと差し出した人差し指を握ったら柔い手を守るためなら、自分はなんだって出来る気がした。
「シュワルツ、」
ぼう、と思考に耽っていればいつの間に部屋に入ってきたのか、ルシフェルが心配そうな表情で顔を覗き込んでいた。「何かあったら言ってください」、「貴方が無理をする必要はない」。……違うのだ、"何かあってから"では遅いのだと、そう言おうと決めた言葉はいつも、彼の目を見るたびに引っ込んでしまう。
だってルシフェルは知っている。夕飯に出たグリーンピースを頑張って飲み込んだこととか、本当は歴史の本なんかより勇者が活躍する冒険の絵本が好きなこととか。だから彼は、シュワルツの嫌いなものが夕飯に出たときには誰にも見られないように小さなお菓子を手渡し、おさがりだからと嘯いて部屋に新品の絵本を置いていく。
ルシフェルは、完璧でない"シュワルツ"を知っていた。大人びた、というより小生意気だとは自覚している。それでも彼は可愛げのなくこまっしゃくれた自分を案じてくれるから、それが殊更に辛くて。──だって自分はどうやっても、彼の前では"子供"になってしまうから!
「外に行かなくていいんですか? セデンタリアの方々はもう少しでお帰りになるようでしたが」
柔らかな声音は純粋に、シュワルツを思いやるものだ。本の角を指先でなぞる。陽光に照らされた文字列が視界の端で滲む。ゆっくりと空気を吐き出して、口を開く。
「……別に。行ったとして、何が変わる訳でもなし」
「しかしディフルジア様は楽しそうにしておられましたし、きっとシュワルツも、」
「へぇ。……それで?」
酷い言葉を吐いて、伸ばしてくれた手を振り払った。彼は諦めたように目を伏せて、「いいえ、何も」と返す。自分から見れば大人に見えるルシフェルだって、まだ十三歳でしかない。それもわかっていながらにして、自分は彼を傷付けたのだ。
お願いだから、やさしくしないで。俺なんかの側にいないで。
優しくされたら、寄り添われたら、もう一人で立っていられなくなるから。
ぱたんと扉の音がして、ルシフェルは部屋を出ていった。しばらく息を潜めていても、彼が再び扉を叩くことはなかった。彼が自分に見切りをつければいいと思うくせして、彼が離れてしまうことに怯える自分も確かに存在している。その矛盾が酷く心苦しかった。
分厚い本を抱き締める。そこにはあたたかさなんてものは欠片もない。──そうだよ、だって俺が拒んだんだ。
嗚呼いっそのこと、ぎゅうと締め付けられるこの心ごと、騙してしまえたらよかったのに、なんて。
「……ごめんなさい、ルシフェル」
窓の外では変わらず、底抜けに明るい声が響いていた。
閉めきられた扉を背にして、ルシフェルは深い溜め息をついた。また自分は、間違ってしまっただろうか。だいぶ昔から無理をし過ぎるシュワルツだがここ最近は特に顕著にみえる。周囲の人間は口々に彼を褒めそやすけれど、その中心でお手本のように笑うシュワルツの心情を慮る者は誰一人としていない。
誰も見ていないのをいいことに、ルシフェルは扉に体重を預けたままずるずるとその場にしゃがみこんだ。立てた膝に頭を埋め、抱えた腕に爪を立てる。扉ひとつ隔てただけなのに、シュワルツとの距離は笑ってしまうほど遠く思えた。
大切に思っているのだ、守りたいと思っているのだ。不用意に掴んだのなら手のなかでくしゃりと潰れてしまいそうな彼をじょうずに救う方法が、ルシフェルには分からなかった。間違えて、間違えて、また、今日も。
ひとりぼっちになろうとする彼を気遣い声をかけるたび、その返答はどんどん冷たくなっていく。セデンタリアからの客人——無邪気にはしゃぐ三兄弟が、従妹を囲んで笑っていた。この国では見たこともなかった光景に、あの輪のなかでならシュワルツだって子供らしく在ることができるのではないかと口を挟んだ。……しかし。
『へぇ。……それで?』
まるで氷のようなその眼差しは、到底七つになったばかりの子供が浮かべていいものではなかった。その言葉に窮され言い淀んだルシフェルを一蹴し、彼は毛ほどの興味もないといった調子で間に線を引いた。
自分がシュワルツにとっての止まり木になれないのであれば、どこかに彼が羽を休める場所があればいいと思っただけだった。いったい私はどこで間違えたのだろうかと、うだうだと渦を巻く思考を振り払うように頭を振る。そう簡単に答えが見つかっていたのなら、最初からこんなにも悩むことはない。
シュワルツと初めて出会ったのは、彼が生まれてすぐのことだ。ルシフェルが今のシュワルツよりも少しばかり小さかった頃、産声をあげた赤ん坊を覗き見た。
微睡むちいさな子供は触れれば簡単に壊れてしまいそうで、恐る恐る差し出した指を反射で握るその様子に、ルシフェルは目を瞬かせた。きゅって、しました。思わず口にした言葉に母と王妃は揃って笑い、それにつられたように赤ん坊もふにゃりと笑みを浮かべた。
彼は妹の話をするとき、きまって手が柔らかかったのだと語る。差し出した指先を掴んで、笑った。ただそれだけのことで、シュワルツは妹に救われた。
でもそれはきっと、自分だって同じなのだ。母親の腕のなかでくう、といびきに似た音をたてた、やわらかくて、あたたかい、初めて見つけた"守りたいもの"。きっとこれが幸せなのだと、あのときルシフェルは幼心に確信したのだ。
ルシフェルはシュワルツの兄ではない。血が繋がっている従兄弟といえど、王子ではないルシフェルにシュワルツの気持ちはわからない。
それでも彼に一番近しいところにいるのは自分だと信じていたし、そうでありたかった。柔い手のひらを守るために彼があのあたたかさを失ってしまったら、きっと後悔なんて言葉では言い表せないと思ったのだ。
(ねえ、シュワルツ、)
我が儘を言ってほしい。あれがやりたい、これがすき。口にしてくれたら何だって叶えてみせるのに。弱冠七歳の従弟が背負うには、その重荷はあまりにも大きすぎる。その全てを差し出せだなんてそんな大それたことは言わないから。
だからせめてほんの少しだけでも、自分に分けてくれればいい。そんなことを祈ってみても扉の向こうの彼は相変わらず沈黙を保ったまま、小さな檻のなかに閉じ籠っている。
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